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南京博物院

南京博物院は、中国でもっとも早く完成した博物館のひとつです。その前身は、1933年、中国近代の民主革命家、教育家、当時国立中央研究員院長を担当する蔡元培の提案でできた「国立中央博物院準備事務所」です。蔡は第1回の理事会の理事長を務めた。中山門半山園あたりの土地12.9ヘクタールの土地を利用して、人文、工芸、自然三大館を作る計画でしたが、諸事情で人文館だけとなった。この人文館が、現在の博物院の本堂となっている。 スタート当時は、展示物を仕入れたり、発掘したりで全国から20~30万点集め、当時としては、ヨロッパとアメリカの博物館を模倣して造った中国でたったひとつの現代的総合博物館で、政府の教育部に直接に所属した。1949年、新中国が成立してから名前は依然として「国立中央博物院」で、政府の中央文化部に属した。1950年、3月9日、文化部の許可を得て正式に「国立南京博物院」と改名し、全国の綜合歴史芸術博物館として、文化部文物事業管理局の管理の下に置かれました。必要な経費はすべて中央政府から配られていました。博物館の運営に関しては、政府の文化部から具体的に指導を受け、南唐二陵の発掘と六朝陵墓の調査などもすべて指導のもとで行なわれた。1950年、東南地区五つの省、江蘇省、安徽省、浙江省、福建省、台湾省と、一つの市、上海市の華東地区を管理する華東文化部の指導の下に置かれることになる。博物院のなかに華東文物工作隊を設置し、山東斤南漢画像墓、安徽寿県春秋時代蔡候墓、浙江杭州老和山新石器時代遺跡、福建みん候 石山新石器時代遺跡、てい州の商代の遺跡の発掘などをサポートした。1954年、華東大区がなくなると、南京博物院は江蘇省政府文化局に属することになり、全国総合歴史芸術博物館として、全国重点博物館のひとつとなった。開館以来、中山門と朝天宮の2カ所に所蔵品倉庫を守り続け、近年は本堂の右側に3000㎡の現代的な新しい倉庫を増設した。南京博物院の所蔵品は42万点。所蔵品の数では、北京故宮博物院の100万点、台北故宮博物院60万点についで第3番目の博物館である。その42万点のなかには、2000点以上の国宝クラスや国家一級文物が含まれ、所蔵する国内外の図書数は役30万冊。古代の書画の数は3万点以上を所蔵しています。 宋と元時代の珍しい所蔵品が多く、数のうえでも質のうえでも、全国有数の所蔵品となっている。新中国が成立してから出土した東海大賢荘の旧石器、きゅう県大とん子彩陶器、儀征、丹徒、六合などで出土した西周と春秋時代の青銅器、徐州と楊州の東漢諸侯王墓から出土した銀縷玉衣、さらに、広陵王金印なども所蔵している。南京、丹陽では、六朝時代の青磁器や竹林七仙彫刻が発見され、南唐二陵からの出土品も有名です。日本と共同で仏教の南伝、早期水稲田考古、江南人骨も研究した。基本的な常設展示のほか、300ものテーマ別展示も行い、これまでに、1200万人以上が訪れ、そのうち50万人以上が海外から訪れている。さらに、日本、ドイツ、エジプト、メキシコ、ソ連、ベルぎ、韓国、オストラリアなどの国と香港、マカオ、台湾地区などでの展示会も行ってきた。博物院のなかには、40年代に設置された民族民俗学の研究機構があり、全国の博物館の中で民族民俗学の研究機構を持つのは珍しく、南京博物院だけとなっている。南京博物院は、文物保護技術の研究を70年代の中期から手がけ、ここ10年は古い紙の保護技術、漢方薬による殺虫保護など14の研究成果を発表し、政府の文化部や江蘇省文化庁から各種賞を受賞。各種論文はこれまでに800篇以上発表しています。南唐二陵、六朝芸術などについての研究発表は、国内外で大きな反響を呼んだ。また、南京博物院の中には、江蘇省博物館学会、考古学会、民族学会と呉文化学会も設置され、さまざまな学術活動を行った。南京大学、アモイ大学、中山大学と復丹大学など十いくつの大学のために大学院生と本科大学生を指導している。 現在、各種研究員170名、考古研究所、民族民族研究所、古代芸術研究所、文物保護研究所、展示部、保管部などで構成されている。

 

 

中山陵

南京市の北側に位置する紫金山(しきんざん)の山麓には、近代中国建国の父、孫文(そんぶん)が埋葬されている中山陵があります。
孫文は、臨時大総統として執務した南京がとても気に入り、臨時政府発祥のこの地に埋葬するよう遺言を残したため、死後一周年目に陵墓が南京に定礎され、1929年に完成しました。孫文の亡骸を受け入れるため、民国政府は、長江の第一埠頭から紫金山に至る、総延長12キロの「迎柩大道」を新設し、街道の両側にはプラタナスが植えられました。 この街道は、現在の中山北路、中山路、中山東路から中山門に至る、南京市の幹線道路となっています。

 

 

明孝陵

明の太祖?洪武帝(朱元璋)の陵墓。市の東の郊外、紫金山の南麓にある。参道には12対の石獣と4対の石人が並び、その先に直径400メートルの円形の墳墓がある。朱元璋は農民の子から成り上がり、南京に明を建てると、「中華の回復」を旗印に元を攻め、北京を占領し、元を北へ追いやった。さしもの強大さを誇った元も、歴史の舞台から消えてゆくことになる。

 

 

 

 

中華門

中華門は南京市の市街南部、聚宝山の北方にある、南京は金陵と呼ばれ古都5000年の文明史を留め幾多の歴史文化遺産を保持している。現在の中華門は1368年に完成した明朝の首都造営にともなってつくられた。秦淮河が東西に横断し、南は長干橋、北は鎮淮橋に望む。もとは聚宝門と言う。辛亥革命後、現在の名に改称された.

 

 

 

 

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